「罪と罰」
言わずと知れた、ドストエフスキー著の世界的名作です。「罪と罰」なんてインパクトのあるタイトル、自らの思想の実現し社会へ益を還元するための障害となっているのであれば、しらみのごとき凡人を殺すことなど大した罪ではない…という理由で高利貸しの老婆を殺してしまう主人公、というような、外側から受けるこの作品に対する印象から、難しくて重たい話なのかと思っていたんですけれど、さにあらず。実はものすごく面白いお話!(重たい話には違いありません)。「面白い」の意味も、もう単純にサスペンス小説的に、恋愛小説的に、心の救済物語的に、面白いのです。これはちょっと意外だったなぁ。さすが、長く世界で読まれ続けているだけある。納得です。
上記のような思想で殺人を犯した主人公ラスコーリニコフの「罪と罰」を描くことで「理性による社会改革」の限界を示し、友人ラズミーヒン、主人公の妹ドゥーニャ、途中からとても大きな存在となる薄幸の娼婦ソーニャなどによる「人間の復興」による救済を描く…というのがメインテーマといえましょうか (あとがきからの受け売り・笑)。ラスコーリニコフの思想にはいかにも若さ故の鋭さ、熱さがある反面、驚くほど深みがなくて、たぶん彼自身皮膚感覚では「何か違う」ことは分かっていたはずなのに、変なところへ潜り込んでしまった自らの思想に自家中毒を起こしてしまっているような状態で、でも特に若い頃はこういうこと比較的よくあるよなぁ、と思ったりしました。ラスコーリニコフは最後の最後まで結構どーしよーもない奴なんですけど(笑、友人のラズミーヒンやドゥーニャ、ソーニャがすごくいい人たちなんですよね。特にソーニャ。これほど魅力的なキャラクターはなかなかいません。
それらの人々に対し、ドゥーニャの婚約者、ピョートル・ペトローヴィチ (ルージン) は心底やな奴かも(笑。ただそれ相応の報いを受けるし物語の後半では全く出番がなくなっているので、そういう意味ではスッキリできます(笑。同じくとんでもない好色家でニヒリスト (らしい) 、スヴィドリガイロフもドゥーニャにあんなことしようとしたりして結構ヤな奴と言われてるみたいなんだけど、僕はルージンと比べるともう少し複雑な人なように思った。僕に言わせれば、ルージン最悪(笑。
そういや以前アンナ・カレーニナを読んだ時にも思ったんですが、ロシアの人って名前がころころ変わって大変。ラスコーリニコフとかロジオン・ロマーヌイチとかロージャとか、ソーニャとかソーネチカとかソーフィアとか…。あと、ロシアのやんごとなき人々は会話の中でさりげなくフランス語を混ぜるのがたしなみだったりするんでしょうか?
アンナ・カレーニナと言えば
アンナの夫、カレーニンは指をぽきぽき鳴らす癖があって、アンナがそれを「下品で我慢ならない」というシーンがあるのですよね。実は僕も指を鳴らす癖があるのですが、そうか、下品な癖だったのか…と最近少し反省。
僕が Palm を使っていたのはもうずいぶん前、確か上司のおさがりの US Robotics のロゴの付いた Palm Pilot Professional を使っていたのだから、1996 年とか 1997 年ころだろうか。あの当時はまだ正式な日本語版というものがなくて、フリーツールをいろいろ入れて使っていた。途中から POBox が使えるようになってずいぶん使いやすくなったっけ。
そんな時代でも Palm の完成度はとても高くて、これ以上何が必要なんだろう?と思うくらいだった。その後、Palm は迷走したように思う。中には「Sony に壊された」という人もいるけど、確かに Sony の Palm、CLIE の目指した方向性が Palm の方向性として正しかったか、と言われると、僕は微妙だと思っている。CLIE は高精細ディスプレイを搭載したり、いろいろなペリフェラルを搭載したりと、いわゆるコンピュータ的多機能さを求める方向に進化したけど、結果的にそれが Palm の良さをスポイルしてしまったのではなかろうか。
僕が使った最初期の Palm でもあれだけの完成度を持っていたのだから、あえてコンピュータ的な部分は進化させずに、モノとしてのクオリティアップを図る、という方向性もあり得たのではないか。チープなプラスチック製ボディではなく、メタルを使ってみるとか。革張りとか。システム手帳には無意味に高級なモノがあったりするように、Palm も「PDA の定番」としてモノとしてのグレードにバリエーションを作っていくという形での進化する道はなかったのか。タッチパネル、Graffiti といった、携帯にはない使いやすいインターフェイスを持った素敵なデバイスが、このままなくなってしまうのは実に惜しいと思うのだ。