bird谷本光さん、再始動!

谷本光さん、再始動!

2004年くらいから全然その活動が分からなくなってしまって、「もう音楽止めちゃったのかなぁ…」と思っていた谷本光さんですが、今年から大復活していました!タイトルのリンクは公式ページ。彼の代表作「Thanks To Music!」の演奏ムービーがダウンロード出来るので、ご興味もたれた方はぜひぜひ一度ご覧になってみてください。彼の演奏、すごく楽しいと僕は思います。
僕が初めて彼を知ったのは彼がまだ 17 歳とかそのくらいのころでしたが、その頃からあんな感じで1、彼自身による作曲の曲もとても素敵なのです (「Thanks To Music!」以外の「渡り鳥」や「影と光」なども実に名曲)。
上記ページではブログも読めます2。そちらによると、おととし、去年と音沙汰なかったのはずっとスペインに行っていたからだったんですね。昔とちっとも変わらない、相変わらずの体当たり人生ですね(^^;。
今年から日本でもまた演奏活動を再開されるそうなので、今度また東京に来られたときに聴きにいきたいな。彼の DVD、「Shadows and Lights」以来の新曲も聴いてみたい。
追記。今流行の YouTube にもムービーが上がってましたので (内容は公式ページで配布されているものと同じものです)、お手軽に見られるこちらもリンクしておきます。

bird任天堂のやる事がいちいち納得できることについて。, 「NANA」と言えば…(2)

任天堂のやる事がいちいち納得できることについて。

今回の E3 で任天堂も Revolution 改め Wii に関する情報をいろいろ公開しましたが、その内容がいちいち的確で腹が立つ…<なぜ?(笑。
まず、Opera 搭載。組み込み用ブラウザとしての Opera は素晴らしいですよ。僕は京ぽん、りなざう (Linux Zaurus) 上で Opera をさんざん使っていますが、例えば同じりなざう上で NetFront と比較すると、同じページをレンダリングするにも圧倒的に早いです。消費クロックレベルでゴリゴリにチューニングされている感じ。レンダリング品質も IE、Mozilla には少し及ばないながら、NetFront よりはずっといい。
次、WiiConnect24。ネット接続された Wii の電源を完全に落とさずに、使っていないときでもネットワークからコンテンツをプッシュしたり自動ダウンロードしたり出来る機能です。DS のすれ違い通信などと同じように、ゲームをプレイしていないときでも自分の Wii がなにか変化している、というこの機能は、任天堂の狙う「ゲームプレイ時間の増加」に大いに貢献しそう。PS3 や Xbox360 のようなパワー追求路線からはなかなか実装しにくい機能ですよね。いいとこ突いてくるなぁ。
最後に、実際のプレイの様子をたくさんデモしたこと。Wii の最大の特徴はそのユーザーインターフェイスにあるわけで、実際に人がそれをどう扱うかが分かる、ということは彼らにとってとても重要なことです。PS3 コントローラの 6 軸加速度センサーの使い方がまだまだ実験的なものだったのに対して、Wii のデモはすごくダイナミックで、まさにあのコントローラあっての Wii であることが分かるものでした。プレイの様子はちょっと EyeToy と似てますね。EyeToy をプレイした経験から考えると、いつもあんなふうにダイナミックにプレイしているとちょっと疲れてしまいそうだけど、Wii の場合はヌンチャクコントローラやクラシックコントローラ、といったものを使っていわゆる普通に座ってプレイできることも出来るでしょうから、きっとユーザがその日の気分でプレイスタイルを変えたりすることも出来るのでしょう。
社長が岩田さんになってからの任天堂のこのそつの無さ、ってのはなんなんでしょうね…。

「NANA」と言えば…(2)

この間偶然、深夜にやっている「NANA」のアニメを見ました。この間見た実写版映画って、漫画のイメージの再現度がべらぼうに高かったんだなぁ…ということが分かってなにゲに面白かったんですが、それより驚いたのは途中流れる CM でのタイアップ商品の変さ加減。2頭身の NANA を操作するゲームとか、「一体これって誰が買うの?」というような奇怪な商品が次々に出てきて、商魂たくましいのはいいことだと思うけど…と。今「NANA」を取り巻く状況、ってのはそんな感じなんですねぇ。まさに「ブーム (の廃れかけ?)」というところなのかな。

bird62,790 円

62,790 円

う〜ん…正直高いなぁ。とは、今日発表になった PLAYSTATION 3 の価格のお話。ちなみに発売日は今年の 11 月 11 日で確定のようです。
タイトルの 62,790 円、というのも、廉価版の方の価格であって、フルスペックな標準版の方はなんとオープンプライス。価格を発表できないくらい高いのかよっ!と思わず突っ込みたくなってしまいます。
とはいえ、例えば北米価格では両方とも公開されており、それぞれ 499 ドル、599 ドルだそうです。その差をそのまま適用すれば、日本の高いほうは大体 7 万 5000 円くらいになるのでしょうか。ほとんど PSX なみですナ。
ITmedia の久夛良木社長へのインタビュー記事によると、かの人の感覚的には「安すぎたかも」とのことなんですが、さすがにそれはないでしょう、社長。
確かに、例えば実質的な Blu-ray Disc 再生一号機であることから、先日発売された HD DVD Player などと比較してみると、同価格帯といえなくもない。ただ、彼らのハードウェア販売台数は PS より少なくとも二桁、場合によっては三桁以上少ないわけですよ。そんなレベルの販売台数でもペイする AV 機器と、とにかくプラットフォームとしてまず普及しない事には何も始まらないゲーム機を同列に語ることはナンセンスでしょう。同じ事は対 PC という場合にも言えて、彼らも基本的にはハードウェア売り切りビジネスですから、AV 機器に近いといえます。
では、純粋なゲーム機としてみたときに、発売日時点の PS3 のコストパフォーマンスが適正か、と言われると、僕の感覚ではあまり適正だとは思えないッス。PS1、PS2 発売時よりも倍近く高い、となると、そもそもマシンのポテンシャルがそのくらい違うとか、見せてくれるサービスの質がそのくらい違う、というのが消費者側にわかりやすく見えないと、なかなか訴求しないんじゃないでしょうか。個人的な感覚では、PS1⇒PS2 の時の質の向上のイメージの方が、今回の PS2⇒PS3 のイメージよりも強かったように思います。性能向上以外の、例えばネットワークなどの方向に関しても、それほど劇的なサービスは聞こえてきていませんし。
詰め込んだ新技術の量や質は確かにすごいのかもしれないけど、普通のユーザは技術を買うのではなく、その技術により達成されるサービスに対してお金を払うわけです。技術屋的視点から見ると適正価格なのかもしれないけれども、一般ユーザ的視点からはとてもそうは見えない。そこに今回の PS3 の弱点があるように思います。久夛良木社長は技術の人なので、彼がそういう風に考えてしまうのはわからないでもないのですけれども、本当ならば、そういったスゴイ技術を一般のユーザが夢を見られるヴィジョンという形に翻訳して広く知らしめる人が必要なんですよね。確かに、PS3 クラスのコンピュータが家庭に数千万台レベルで普及すれば、いろいろ面白い事が実現できるはず。それを、PC や家電の人たちが考えた延長線上ではなくて、ゲーム機ビジネスという立場から、しっかり地に足の着いたヴィジョンとして語れる人が必要なのだと僕は思います。そしてそういうヴィジョンが語られない限り、PS3 のこの価格が適正であると判断されることもないのではないでしょうか。
全く別の考え方として、発売当初はそもそも生産にも苦労するし、PS2 の時のフィーバーのようになって買えない人が続出したり、あまりに大きなブームが来て現行世代機のビジネスが急激に縮小してしまうことを恐れて、とりあえずご祝儀価格で出してみた、という可能性もないわけではないです。ただゲーム機ビジネスの場合、プラットフォームたるハードウェアの台数が出ない限り、その上でのソフトウェアビジネスも成り立たない、という面があり、上記アイディアには、「ハードが高い」⇒「台数が出ない」⇒「ソフトが売れない」⇒「儲からないからソフト開発しない」⇒「ライセンス収入が増えない」⇒「ハードを安く出来ない (ハードが高いまま)」というネガティブスパイラルに陥る諸刃の剣的リスクがあります。それに、北米市場では Xbox360 の登場以降、すでに予想を超える急速さで現世代機市場の縮小が始まっている、という現実もあります。この戦略はリスクが大きすぎるような気も。
とにかく、これからはいかに一般の人にあの価格が適正だと思わせるくらい、魅力的なサービスを提示できるか、にかかってきたわけで、ある意味 SCEI のとりうる戦略としてはわかりやすくなったかも。さぁがんばろー>SCEI。

bird今日の多摩動物公園, 「NANA」と言えば…

今日の多摩動物公園

鳥乃の熱烈なリクエストと、今日は天気が良さそうだったので1、家族でモノレールに乗って多摩動物園に行きました。
さすがゴールデンウィーク、というべきか、こんなに混んだ動物園は初めてでした。これまでも、コアラやライオン、ゾウなどの人気のある動物近辺が混んでいたことは何度かあったんですが、今日はどこもかしこも人、人、人、という感じ。普段はめったに人がいないレッサーパンダからゴールデンターキーにいたる道ですら人で埋まっていました。さすがに動物慰霊碑のところは誰もいませんでしたが (今回は我々もお祈りしてきました)。
新聞で報道された効果なのか、我が家のアイドル、ウォンバットのチューバッカ君のところもすごい人でした。あゆみさんは「にっくき新聞め!」と怒っていました(笑。
そういえば、帰る途中のお土産屋さんで一緒に仕事をしている K 氏と偶然お会いしました。「今日は休んでいていいの?」と聞かれ思わず苦笑。いえ、帰ったら仕事するんです…。以前一度だけお会いしたことのある奥さまもお子さんもお元気そうで何よりでした。
それにしても、明日 5/5 なら入場料がタダ、という情報を皆知らないのでしょうか?明日はタダだから今日は空いてると思ったんだがなぁ。それとも、明日はもっと混んでいる、ってことなのかな。うぅむ。それはあまり想像したくない状況だ…。

「NANA」と言えば…

そういえば、こないだの出張の行きの飛行機で「NANA」を見た、という話を書きましたが、帰りの飛行機で隣に座ったおじさんは、飛行機に乗っている間に3回も通しで「NANA」を見ていました。それも、途中で寝たりするでもなく、どの回もとても真剣にずっと見ていました。ちょっとびっくりです。宮崎あおいちゃんのファンなのかな?

bird日本政府、Winny 対策で国産 OS を開発?!, 「NANA」

日本政府、Winny 対策で国産 OS を開発?!

意味が分かりませんから〜(笑。

 政府の情報セキュリティ政策会議は28日、ファイル交換ソフト・ウィニーを介した情報流出を防ぐ次世代基本ソフト環境の開発などを盛り込んだ行動計画「セキュア・ジャパン2006」を正式決定した。

とのことなんですが、というのはつまり、

  1. 最近、Winny による機密情報流出事件が相次いでいる…
  2. その原因は、セキュリティホールだらけの Windows だっ!
  3. だからセキュアな国産 OS が必要なのだっ!

というロジックが主軸におかれている、ってことですよね。Microsoft が聞いたら怒り出しそうな話だな(笑。

「何がおかしいのか」というポイントをもう少し説明してみます。

まずそもそも、1. から 2. へ移行する段階でモーレツな論理の飛躍、というかはっきり言って事実誤認が存在します。「Winny による情報流出の原因が Windows のセキュリティ設計/実装にある」とする見方は、端的に言って間違っています。というのも、技術的に言えば、Winny が流出させる情報、というのは、Winny を実行しているユーザの情報であって、だとすればどれほど優れた設計の OS を持ってきたところで、その流出を OS レベルで止めることはできません。「あるアプリケーションが、そのアプリケーションを実行しているユーザの情報にアクセスできない」というのは、本質的にアプリケーションの不能化を意味しますから1

「Winny」といったある特定のアプリケーションのおいて、特別に上記のような制約を実装することももちろん可能ですが、それは現状の Windows でも十分可能な話です。この議論はこの問題の本質的な原因をあぶりだしていて、そもそも Winny クラスのアプリケーションには常にバグ/見落とされた欠陥が存在し、継続的にメンテナンスしない限り今回のようにその欠陥をつくマルウェアの隆盛を防ぐことはできません。にもかかわらず今回の場合、Winny というすでに相当な人気を得ていたソフトウェアの作者を、そのメンテナンスが不可能な状態にしてしまう、という、ソフトウェア工学的には致命的なミスを犯してしまったが故に、現在の状況が生み出されているわけです。それが根本的な原因だ、ということをちゃんと認識すべきだと思うけどなぁ。

2.から3.への展開も国粋主義があさっての方向へ暴発してしまった、という以外論理的な解釈はしづらいくらいめちゃくちゃな話で、日本政府にどんな具体的なヴィジョンがあるのか聞いてみたいくらいです。「OS のセキュリティ」という分野で日本がそれほど進んでいる、という話は寡聞にして聞いたことがありませんし。僕の認識では、政府の言う「基本ソフト環境」のレベルで、Antinny のようなマルウェアに対抗できる手段なんて、もうすでにやりつくされてしまっているようにも思いますし、こと機能面において Windows はかなり実装が進んでいる方のプラットフォームなのではないかと思います2。「コンピュータ」というものの定義を変えてしまう、くらいの話ならばいろいろ想像できなくはないのですが、どうもそこまでちゃんと考えられているようにも思えないんですよね。

というわけで、ひさびさに思わず突っ込みたくなるような話題でした。安部ちゃんはそれでも政府の中じゃ、小泉 ML を立ち上げてみたりして IT には強い方、と思われてるんだろうなぁ。うーむむむ…。

「NANA」

NANA -ナナ- スタンダード・エディション 飛行機の中でやっていたので初めて見ました。ほほう、こういう話だったのか。

個人的に面白かったのは、最近の若者は個人主義的傾向が強いのかと思っていたのだが、あっさりルームシェアを決めたり主人公の友達が彼氏とのトラブルにいろいろ絡んだりと、結構ふつーにウェットな関係を作っていてそんなもんかと思った、この話の主人公 (ハチ) のようなキャラはいわゆる「痛いヤツ」の範疇なのかと思っていたが案外そうでもないのかと思った、NANA が見た目と裏腹にやけに純情繊細ナイーブキャラでビビッた、つーか「上京物語 (by シャ乱Q)」的設定はいまどきどーなのよ?と思った、中島美嘉の演技は正直「?」だが、歌は良かったと思う、アマゾンの公式レビューにある「複雑な恋のドラマ」は正直微妙 (むちゃくちゃシンプルな恋のドラマじゃん!)、アマゾンレビューの評価が微妙に悪くてそんなもんかと思った、しかしこれを見て原作読みたくはあんまりならないなぁ、と思った (もちろん多少興味はあれど)、てなところ。しかし俺の見方はオヤジですナ(笑。

bird「幻惑の死と使途」, お風呂

「幻惑の死と使途」

幻惑の死と使途 なんだかんだと文句を言いつつ読んでいる森博嗣著、S&M シリーズ第6作。いよいよ後半戦です。

今回は奇術がテーマ。相変わらずあらゆる方向に悪趣味な萌絵ちゃんが突っ走り、犀川先生が読者を置き去りにして一人で納得しています (最後にはいやいやながらちゃんと種明かししてくれるのでヨシとする)。まぁトリックはそれなりに面白かった。

ネタばれにならないように気をつけて書きますが、この話を読んでいて一番思ったのは、劇中の登場人物と読者に与えられる情報の差です。曲がりなりにも劇中の人は事件を現実に体験できる(?)ので、読者であるわれわれと比べると与えられている情報に大きな差があるのですよね。自ら積極的に事件には関与せず、したがって事件に関するほとんどの情報は萌絵ちゃんから伝えられている犀川先生にしたって、やっぱり読者との間には歴然とした情報量の差があります1。この話は特にその部分でフラストレーションの溜まるお話でした。こういうのはアンフェアとは言わないのかなぁ?

お風呂

なんだか前にも書いた事があるような気がするんですが、お風呂に入って身体や頭を洗っているときって、なぜか頭がクリアになりませんか?いろいろな考え事に対して、ぱっと考えがひらめく事って、お風呂に入っているときがとても多い気がする。
個人的には前から思っていたことながら、最近、会社の尊敬する人の日記でもよく「お風呂で気が付いた」という記述にぶつかり、ふふふ、と思ったりしました。

birdPDIC Reader for Java MIDP2.0

PDIC Reader for Java MIDP2.0

僕の新しい PHS、WX310SA には Java アプリ実行機能があって、いわゆる MIDP2.0 対応の Java アプリを実行することが出来ます。MiniSD カード上のファイルなどもふつーに読み書きできるので、巷にいくつかあるフリー or 有償の英和辞書をあまりまくっている MiniSD 格納して、簡易電子辞書ライクに使えないか、と妄想しています。
Java で PDIC を引くクラスなんてそこら中に転がっているだろう、と思ったんですが、意外にないものですね。自分で作るしかないのかなぁ。プライベートでコード書く暇がないよ…。

bird35mm 換算焦点距離

35mm 換算焦点距離

最近のデジタルカメラは、ほぼ例外なく 35mm フィルムよりも小さな撮像素子 (CCD や CMOS) を利用しているため、そのレンズの焦点距離もとても短くなっています。そのため、昔からカメラを使ってきた人に感覚的にわかりやすいように、35mm フィルムのカメラに換算した時の焦点距離を書く、ということがしばしば行われています。例えば、Sony の Cyber-shot T30 は 1/2.5 型の CCD を搭載しています。1/2.5 型は対角 7mm くらいの CCD のようで、35mm フィルム (対角 42mm くらい?) と比べると、寸法比で 1/6 くらいです。T30 が積んでいるレンズは実際の焦点距離は f=6.33〜19.0mm というものですが、これだと直感的にどのくらいの画角かわからないため、35mm カメラに換算した「35mmフィルム換算:38〜114mm」という数字もカタログに記載されています (後者が前者の6倍となっていることがわかると思います)。また、僕が持っているキスデジの CMOS はほぼ APS-C サイズと同じといわれており、35mm フィルムとの換算比は一般に 1.6 倍といわれています。
ところで先日ふと、何気なく使っているこの「35mm フィルム換算焦点距離」が、実は2種類あるのではないか、ということに気が付きました。上記の Cyber-shot T30 のような一般的なコンシューマカメラの場合、CCD がフィルムよりも小さいことにあわせて、レンズも小さく、専用に設計されています。つまりバックフォーカルディスタンスも、小さい CCD (フィルム)、小さいレンズに合わせて短く設計できているわけです。この場合、原理的には 35mm フィルムのカメラと相似に (つまり完全なミニチュアとして) 作る事も出来るであろうことから、画角、という意味では、まさに 35mm 換算が成り立ちそうです (ボケの問題はとりあえず置いておきます)。
しかし、現在のキヤノンやニコンのデジタル一眼レフの場合、35mm フィルム時代と同じレンズシステムを使うために、小さい撮像素子にもかかわらず、35mm 時代と同じフランジバックを持たせる必要がありました。そうすると、出てくる画像はあくまでも「35mm フィルムをトリミングしたもの」になります。だとすると、確かにフレームの見た目のサイズは上で書いたような 1.6 倍といった換算が有効でしょうが、その中身のパースペクティブのかかり方については、35mm カメラと全く変わらない、ということになります。例を挙げれば、35mm 時代の標準レンズ 50mm に対して、デジタル一眼レフでは 1.6 倍を考慮して 30mm くらいが標準レンズ相当、と言われていますが、35mm カメラ+50mm レンズとキスデジ+30mm レンズで同じ場所で同じ被写体を狙った場合、確かに対象そのものはほぼ同じ大きさで写せる可能性はあれど、その背景はきっとキスデジの方が小さく写ることでしょう。1.6 倍換算のキスデジの場合でも、パースペクティブのかかり方は 35mm カメラに 30mm レンズをつけた場合と同じだからです。
というわけで、カメラとレンズが一体となったコンシューマカメラ、またデジタル専用に再設計されたフォーサーズ (多少フランジバックが短いらしい) ではより本当の意味で換算が有効、その他の 35mm 時代と資産を共有するシステムでは換算はあくまでフレームに入れられるサイズが同じ、くらいに思っておくのがいいんじゃないかと思ったんですが、そんなことないのかなぁ?
5/8 追記。よく考えると (よく考えなくても?) そんなことないですね(^^;。最初から焦点距離ではなく画角で考えれば良かったんですが、例えばシグマのカタログには、50mm F2.8 EX DG MACRO の画角について、35mm フォーマットの場合 46.8°、SD フォーマット (1.7 倍換算) の場合 27.9°と書いてあります。対して 28mm F1.8 EX DG ASPHERICAL MACRO の場合、同じく 75.4°、47.9°となります。つまり画角で見ると、35mm の一眼レフに 50mm レンズをつけた場合と、SD フォーマット (≒APS-C サイズの CCD を持つデジタルカメラ) の一眼レフに 28mm レンズをつけた場合がほぼ等しくなるわけです。画角が等しい、ってことはたぶん、パースペクティブのかかり方やらなんやらも同じになりそうで、つまりいわゆるデジタル一眼でも換算焦点距離を普通に使ってよい、というのが正解なのでしょう。
撮像素子が小さくなっているのに同じだけバックフォーカルディスタンスを確保しなくちゃいけないのは特に広角レンズの設計では大変そうだけど、最近ではレトロフォーカスレンズの設計もずいぶん進んできているし (Olympus の 7〜14mm、なんていうお化けレンズもあったりします)、デジタル専用とすればイメージサークルも小さく出来る=レンズ全体を小型化できる、というわけで、クリアできない課題ではない、ってことなんでしょうね。

bird「脳のなかの幽霊、ふたたび」

「脳のなかの幽霊、ふたたび」

脳のなかの幽霊、ふたたび V.S.ラマチャンドラン著。書名は「ふたたび」となっていますが、前作からさらに思索を進めたもの、というわけではなくて、一般の人に対する講演の内容をまとめなおしたもの、という本です。そういった意味では、前作以上に読みやすく長さも短いので、とっかかりとしてこちらから読む、というのもアリかもしれません。

元が講演会の内容のせいか、その主張は前作よりもラジカル、というか、より自由に推論を展開していて、面白いです。推論、と言ってもラマチャンドラン博士のこと、きっといろいろな観察や実験がベースにあるに違いなく、「芸術の論理」に関する話などは、「うーんなるほど」と思わせます。

前作の中心的なテーマが「幻肢」だったとすれば、今作は「共感覚」がそれにあたるでしょう。「共感覚」とは、数字を見ると色を感じる、と言ったような、2つの感覚が入り混じることをいいます。最近の研究から、それほど珍しいものではないそうですよ。数字とともに色を見る共感覚者の場合、数字の認識能力が非共感覚者よりも有意によかったりするらしく、ちょっとうらやましかったり(笑)。

個人的に面白かったのは、前作にも出てきた視覚の二つの経路、いわゆる「ゾンビ」の話です。「盲視」という珍しい病気は、左右どちらかの視覚皮質を損傷した際、その損傷と反対側が見えなくなってしまう、というものですが、その病気について調べていた神経科学者が、その見えないはずの領域にある光点を患者に指し示すように言うと、患者自身は全く見えない、完全にあてずっぽうと言っているにもかかわらず 99% の精度で光点を正しく指し示せることがわかった、というのです。この理由は、視覚の二つの経路のうち、新しい、意識と結びついたほうの経路は損傷したが、古いほうは無事なために仕事を行う事が出来たものと推測されるのですが、僕はこの話を読んで、脳の中で、意識とは関係ない部分の処理でさえも、かなり意味的に高レベルに扱われていることに驚きました。だって、「光点を指差す」というのはそれだけで相当複雑な処理です。そんな複雑な処理も、脳は意識の介在なしに実行できるのです1。僕らはしばしば、「意識」=「大脳の働き」と考えがちですが、意識は大脳が行っている処理のほんの一部に過ぎない、ということを忘れちゃいけないんだろうなぁ、と思いました。

First | Prev | 406 | 407 | 408 | 409 | 410 | Next | Last