「アウトブリード」
これまで、何冊か保坂さんの本を読んできましたが、小説以外の本を読むのは初めてでした。この本は保坂さんがいろいろなところに発表した書評や、友人との書簡、その他を集めた「エッセイ集」ということになっています。
保坂さんの小説は、たいてい保坂さんを連想させる小説家が主人公だったり、登場人物が本当にいそうな人ばかりだったりして、僕はてっきり、保坂さん自身が小説の登場人物のような人で、日常の思考の延長線上で小説を書いているんだと、つまり彼自身と小説の主人公はかなり近い人物なのだと思い込んでいました。
確かに、彼が日頃考えていることを小説として書いていることは間違いないのですが、しかし彼は無自覚に自分の流儀で話を紡いでいるのではなく、とても自覚的に、小説として登場人物たちにいろいろなことを考えたり話させたりしているのだと、この本を読んで初めて知りました。
ところで、「カンバセイション・ピース」でも「愛っていうのは、(中略) 偶然が絶対化することなんだよ」なんてセリフがありましたが、この本 (「アウトブリード」) でもとても重要な人として描かれている「樫村晴香」という哲学者の人が、保坂さんの中学生の時の同級生だ、という後書きを読んで、なんだかすごく首尾一貫した感じを受けました。
僕達はなんとなく、偉大な哲学者や小説家が僕等とは比較にならないような情報源や人脈を持っているかのように、そうでなくてはあれほど普遍的に価値を持つ文章を書くことが出来ないかのように考えてしまいがちですが、全然そんなのは間違いだった。保坂さんの文章に普遍性を感じるなら、それは実は単純に彼が人間であるがゆえに生み出し得る普遍性なのだなぁと。
そういえば保坂さんもカントの「純粋理性批判」を読んで途中で興味を失っている、と書かれていてちょっと面白かった。その理由というのが、「カントがア・プリオリだと言っていることに納得できなかった」から、だそうなんですけれども、僕もちょうど同じことを「プロレゴメナ」を読んでいる時に感じたのですね。「プロレゴメナ」を半分読んだところでの僕なりの理解で言うと、カントが「ア・プリオリ」だと書いていることは、どうも身体的な認識の形式のことのようなんですね。人間の身体的構造に伴う感覚信号のフォーマット、というか。カントの時代にはそれってほとんど絶対的なものだったのかもしれませんが、さまざまな道具で感覚や認識を拡大しつづけている現在に生きる僕等にとって、感覚信号のフォーマットが世界認識に対してそれほど絶対的なものだとは思えなくなっていると思ったのです。
それにしてもいつものことながら、本屋の店長のお薦めはとても適切だなぁ。確かに、保坂さんの感性には近しいものを感じるというか、すごく共感する部分があります。
「ラスト・サムライ」
SAK が「激萌えだから見れ」と貸してくれました。
それで感想ですが、うーん、それなりには面白かったけど、僕的には「激萌え」というほどではなかったなぁ。SAK は群集合戦シーンが大好きなんだよね。「トロイ」も絶賛していたし。
僕があんまり楽しめなかった理由は、(僕が日本人のせいか) 風景の描写があまりに嘘臭く感じてしまったことかな。勝元の村もなんだか LOTR のホビット庄みたいだし、横浜の街のスケール感も変。合戦シーンもまるでゴルフ場で戦っているようで、あんまり「日本」らしくなかったと思う。その辺の違和感が最後まで引っかかってのめり込めなかった、ってところかなぁ…。
しかーし!来週のデカレンジャーはどうもこの「ラスト・サムライ」のパロディの予感!そういう意味でこのタイミングで予習させてくれた SAK には深く感謝しておりまする。どーもありがとう!