アナロジー
アナロジー
今読んでいる本 (「メタマジック・ゲーム」。また再読してます) に、アナロジー1の大切さについて書かれた章がありました。曰く、「人間が何を見てもアナロジーを思ってしまうのは、それが進化戦略上重要な要素だったからに他ならない」。そこからの発展で、「正しいアナロジー」を想起出来るかどうか、ということは生きていく上で非常に重要な要素である、と言っています。ここで彼の言う「正しさ」というのがちょっと曖昧なんですが、一言で言えば「人間らしさ」という感じかしら (何のこっちゃ、ですね)。人間らしい柔らかさ、人間らしい常識感。「人間」という種が語りかけてくる感覚。突拍子もなく非常にユニークなアナロジーを想起してしまう人もいるけれど、そういう人は実生活では非常に苦労するに違いない、といったことが述べられています。
この話を読んでいてふと、よく Internet 上で取り上げられるメタ議論のうち、「例え話は良くない」というような話を思い出しました。「例え話止めろ」と主張する人の論旨は、例え話はどこまで行っても例え話で、元々の話とは根本的に違う。例え話という形で論をゆがめてしまうことで、元の議論の決定的な要素が抜け落ちてしまったりする、と言う点を危惧してのことだと僕は理解していますが、ホフスタッターの議論によれば、人間は類推することなしに物事を理解出来ないみたい。どんな話もそのアナロジーによって思考のポジションが定まらないと、理解したという気分になれないらしい。そうだとすると、アナロジー自体を止めろ、と主張することはちょっとナンセンスで、むしろ、「そのアナロジーは良いアナロジーではない」と主張すべきなんでしょうね。
ある物事に関する理解を他者と共有したいと欲した時に、そのアナロジー、さらにそのアナロジーと、どんどんメタレベルに上っていくことはよくありますけど、こういう時に共感を呼びやすいアナロジーがつまり「正しいアナロジー」なんだろうな。