オレオレ詐欺の手口
オレオレ詐欺の手口
非常に恐い話。「オレオレ詐欺」という名称から想像されるような、初期の頃の素朴な手口とは比べものにならないほど巧妙化、悪質化しているのですね…。
自分なりに教訓をまとめてみるなら、やっぱり「ソースをあたれ」ということでしょうか。いわゆる 2ch でよく言われる言葉、「嘘を嘘と見抜けない奴は…」と同じく、単一の情報源をうのみにせずに、情報を多角的に分析することが重要と。そのためにもパニックしないことが大切なのかな。
非常に恐い話。「オレオレ詐欺」という名称から想像されるような、初期の頃の素朴な手口とは比べものにならないほど巧妙化、悪質化しているのですね…。
自分なりに教訓をまとめてみるなら、やっぱり「ソースをあたれ」ということでしょうか。いわゆる 2ch でよく言われる言葉、「嘘を嘘と見抜けない奴は…」と同じく、単一の情報源をうのみにせずに、情報を多角的に分析することが重要と。そのためにもパニックしないことが大切なのかな。
「飛ぶ教室」等に掲載された10篇を納めた短編集。池澤さんの本です。南の島に住む「ティオ」が、いろんな人やいろんな物事に遭遇する話。
子供の視点で書かれた本で、ちょっとだけ魔法の匂いのするお話なわけですけれども、テーマは結構大人っぽい。ところで僕は科学と魔法は共存出来る、というか共存すべきと思っていて、つまりそれは、現在の科学は自然を認識するための一つの方便に過ぎず、その枠に収まらない全体を常に意識する必要がある、特に科学の適用範囲が広がり、「枠に収まらない部分」が見えにくくなってきているのならなおさら強く意識しなくちゃならないと思うからなんですね。そういう意味ではすごくエンジニア的発想なのかも。
池澤さんの「スティル・ライフ」にある、
大事なのは全体についての真理だ。部分的な真理ならばいつでも手に入る。それでいいのならば、人生で何をするかを決めることだってたやすい。全体を見てから決めようとするから、ぼくのようなふらふら人間が出来上がるのだ。
スティル・ライフより引用
という文章には、ちょっと理想主義的なところもありますが (若い頃は皆そう)、上で述べたことと同じような思いを感じました。池澤さんの文章を読んでそう思うようになったのか、以前からそう思っていたのかは今となっては分かりませんが。
「南の島」の生活が、先日行った八丈島の情景と重なってとてもリアルに感じました1。そういう意味では僕にとって非常にタイムリーにこの本を読むことが出来たといえるのかも。
一般に一番楽しい時期と言われている、「恋愛が成就するまでの紆余曲折」ではなく、お互い気持ちを確認し合ってから、それぞれの人生に相手をどう位置付けるか、というプロセスの方をメインに書いているところが、とても池澤さんらしいというか、個人的には非常に面白かった。
「素晴らしい〜」と同じく主人公はエンジニアで、女性関係にはちょっと奥手、週末は友人達とともに風力発電機作りを趣味にしてたりします。主人公がゆくゆくはダリウス型風車を作りたい、といっていたり、ヒロインは NGO で働いていたり、世界観という意味では「素晴らしい〜」へ続くものを感じました。もちろんテーマはぜんぜん違いますけれども。
そういえば池澤さんの話にはキャラクターの外見的な説明、というのがほとんど出てきません。結局最後まで主人公がどんな背格好なのかすら分からないことも多いんですが、こういうところを見ると、保坂さんが書いていた「風景や人物に関する描写は、その作家が物語を語るための生理的な必然」という話が思い出されて面白いです。池澤さんにとって世界とはそのように見えているのだなぁ、と。
池澤夏樹さんの「楽しい漂流生活」のお話。いやもちろん漂流なんて大変な事態ですから、主人公は死にかけたりもするんですけど、全編を読んで感じるイメージはやっぱり、「楽しい漂流生活」。
「生きるための作業」に忙殺されて余計なことを考える暇がないことの不思議な幸福感についてなどが語られるわけですけれども、そこから文明批判といった方向へ流れるのでなく、あくまでも主人公の個人的な感覚、認識の話、つまりしっかり身体感覚から発せられた思考に終始するあたり、僕はとても好ましく思いました。無人島にたった一人で何ヶ月も暮らしていながら、その島での生活も所詮都市での生活の鏡像に過ぎない (本当に島に住んでいるとは言えない)、と言ってしまう謙虚さ。「素晴らしい〜」でも感じましたが、池澤さんはいろいろな面で謙虚ですね。
叙情的 (って言うのかな?) な文体に加え、お話の内容的にはなかなか荒唐無稽で、結構「古き良き物語」っぽいのかも。間違っても「[蝿の王](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4102146016 /ref=as_li_tf_il?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4102146016 &linkCode=as2&tag=digitmemo-22)」みたいな話ではないのでご安心を(笑。
AF が迷いがちであるとか、ホワイトバランスを時々外すなど、普段 LUMIX を使っていて感じることがいろいろ書かれていていちいちうなずく。
先週、DMC-FX7 や DMC-FZ3 などを触ってきましたが、速くなったと言われている AF もそれほど劇的には変わっていませんでした。倍速の3点測距モードも確かに多少速くはなるのですが、ただどうも「液晶のリフレッシュを停止させて速度を稼ぐ」方式らしく、AF 中液晶画像が停止してしまいます。
池澤夏樹さんの芥川賞受賞作なんだそうです。短篇〜中篇という感じの「スティル・ライフ」と「ヤー・チャイカ」の2作を収録。
スティル・ライフですが、まだ人生のモラトリアム期間を過ごす主人公が、少し謎めいたバイト仲間、佐々井と知り合い、ちょっとした出来事が起こるお話。
冒頭でいきなり読者に対して世界認識に関する根本的な話を伝えようとしていたりするところは、少しジュブナイルっぽかったりするのかもしれません。それが、「たとえば、星を見るとかして。」というところに落ちてしまったりするあたり、とてもロマンチックでもあり、可愛くもあり (そうなのよ。「理科っぽい話」って結構ロマンチックなのよ)。若い人、まだ世界と自分が未分化だったり、うまく折り合いをつけられない頃の人には結構指針となりうるお話なのかも。
池澤さんの本としては比較的最近の本「すばらしい新世界」に続いて2冊目ですが、「すばらしい〜」の書評に「初期の頃の叙情性は見られない」と書いてあった理由が少し分かったような気がしました1。池澤さんの本も「文学」に自然に「科学」がとけこんでいる印象がありますが、同じく科学っぽい小説と言えるかもしれない保坂さんの本と比べると、特にこの「スティル・ライフ」はかなりロマンチックです。かっこつけしいとも言えるかもしれない。保坂さんの本はいろいろとかっちょわるいところがあるわけですが (しかしそれが魅力的なのだ)、池澤さんはずっとかっこいい。たぶんお話の中だけじゃなくてリアルでもかっこいい人なんだろうなぁ…と思いました。
僕としては「スティル・ライフ」よりも「ヤー・チャイカ」の方が面白かった。「ヤー・チャイカ」とは、人類初の女性宇宙飛行士ヴァレンチナ・テレシコワさんのコールサイン (「私はかもめ」という意味) なのだそうです。先端企業で働く一人娘と二人暮らしの主人公が、ふとしたきっかけで知り合ったロシアの人との交流を描くお話ですが、お話の構成、内容的にはかなり突拍子もなくてほとんど実験的な感じ。主人公の普遍的でも根源的でもない、極めて個人的なテレシコワさんへの想いに、僕も意外に共感しちゃったりして。
ちょっと訳あってしばらく池澤さんの本が続く予定。この本の次に「夏の朝の成層圏」(池澤さんの長編デビュー作) を読み出しましたが、なるほど、「初期の本は叙情性豊か」というファンの評判がよく分かるなぁコレ(笑。
完全に忘れてたよ…。丸8年目にして初めてだ。あゆみさんに指摘されて気がついた。これでまた弱みが一つ増えた(笑。
UNIX USER の高林さんの記事を読みながら、wxWidgets と戯れる。MinGW (MSYS) と wxWidgets の組み合わせでごく普通に GUI アプリケーションが作れる。wxGlade のような GUI エディタもある。8年前にこれがあれば、今のように Java とかかわることもなかったかもしれないなぁ2。今はフリーな開発環境がいろいろと充実してて良いですね。
今日のお昼に、ごはんを食べた後お茶を飲んでのんびりしてたら、いきなり台所で「バシャーン!」というような大きな音。一瞬、「また子供が何か落としたか?!」と思ったんですが、その時子供は一人も台所におらず (今思うと非常にラッキーだった)、なんだろう…と見てみると、何と棚に重ねて置いてあったガラスボウルのうち一番大きいもの (15cm 径くらいかな?) が粉々に割れて飛び散っていました。
完全に 1〜3cm くらいの破片になってそこいら中に散らばってしまっていて (1m くらい飛んでました) 片付けるのが大変でした。うっかり親指切っちゃうし。
割れた破片の様子はこちらの写真 (by lay さん) とまさに同じような感じで、ガラス製品では時々そういうこともある、と僕も以前聞いたことはありましたが、実際に遭遇すると驚きますね。怪我したのが僕だけなのは不幸中の幸いでした。このボウルを買ったのはあゆみさんなので僕はどこ製とか知らないんですが、みなさまもお気を付けを。
昨日から firefox を使ってみて感じた Opera との違いというと、
もうしばらく使ってみようっと。
アーシュラ・K・ル・グィンさんの本。「闇の左手」などと同じ「ハイニッシュ・ユニバース」シリーズの一冊で、僕は気がつかずに買ったのですがずいぶん最近に書かれたものだったのですね。
「闇の左手」と同じシリーズということでそちらのイメージで読みはじめたんですが、どちらかというとこの間読んだ「世界の果てでダンス―ル・グウィン評論集」の方に近いイメージだと思いました。
それにしても、ル・グィンさんはどうしてこの本のような文化や人類について語るのに SF 的な舞台設定を用いるんでしょうね。もしかして、地球上にはすでに例えば西洋文明を知らない人はいなくなった=つまり西洋文明の影響を完全に受けていない文化や人達をドキュメンタリーとして語ることは出来なくなってしまっているから、だったりするのかなぁ…なんて考えたりしました。
今回の本は会社のそばにあるこの本屋さんで買ったのですが、ここがとてもおかしな本屋なんですよね。Web ページには「spiritual bookstore」なんて書いてありますが、とにかく品揃えが偏りまくってる。
僕好みのホフスタッターやペンローズの本がたくさんあるのもとても変ですけど、それに加えてオカルト系とかヒーリング系、「自分探し」系の実用書が山ほどあったりして、ポリシーがあるんだかないんだか分からない本屋です。
文庫はほとんどないくせにその 1/3 くらいが岩波文庫だったり1、残りは中公文庫とちくま文庫だったり(笑。
また今度遊びに行こう。
ここのところずっと Opera を使っているのですが、ちょっと気分をかえて firefox を使ってみることにしました。
さてそれでは bookmark を移すか…と思い、Opera から bookmark を HTML 形式で export し、それを firefox で読み込もうとしてみたところ、どうにもうまくいかない。どうも Opera が「Netscape 形式」として吐き出した bookmarks.html ファイルを firefox はブックマークファイルとして認識してくれないようです。
一つの手としてフリーウェアの BookSync を使う、という手があるのですが、残念ながら Windows 用です。
Linux 上で変換する方法はないものか…と思いいろいろ見ていたところ、konqueror なら Opera のブックマークも firefox (mozilla) のブックマークも import/export 出来ることが分かり、Opera→konqueror→firefox と経由することで、無事ブックマークを同期することが出来ました。
偉いぞ konqueror!
先日ふと、僕がここに書くこと、って無意識のうちになんらかのフィルタがかかっていたらしいことに気がつきました。もちろん「公序良俗に反しない」とかそういうレベルの話じゃなくて、テーマに関すること。
気がついたきっかけは、7月に歌 (今年の NHK 学校音楽コンクールの課題曲) を歌う機会があって、その時いろいろ思ったことがあったはずなんですが、何故かここに書こうとは思わなかったし、ここを書いている時も全然思い至らなかったんですね1。改めて考えてみるとそれがすごく不思議だった。
特に特定の読者を想定していたりはしないつもりだったんですが、知らず知らずのうちに「読者像」を作ってしまっていたみたい。
これからは出来るだけ plain なココロで書くようにしよう。
ヴァーチャルリアリティ装置をテーマにしたミステリー。岡嶋二人さん名義の最後の小説なんだそう。
ずっと以前、出張のために一人で飛行機に乗らなければいけないことがあって、暇つぶしに空港の売店でこの本を買ったのでした。当時岡嶋二人さんも (もちろん井上夢人さんも) 全然知らなくて、「クラインの壷」というタイトルに惹かれて買ったのですが、思いのほか面白くて得した気分になったっけ。つまり今回は再読。その後井上さんの「99人の最終電車」に高校の時の先輩がかかわっていることが分かったり1、「岡嶋二人作品」の中では三本の指に入るくらいの人気作だったらしいこと、NHK ジュニアドラマとしてドラマ化されているらしいことなどを知って2、面白いめぐりあわせだったなぁと思いました。
VR モノとしては最近ではよくある展開の話と言えるのかもしれませんが、小説として厳選されたパーツを組み合わせ、切れ味鋭いお話になっているように思います。ダークなエンディングもなかなか。それにしても「携帯以前」の現代小説って今ではすっかり古びてしまいましたねぇ。このお話でも、主人公が奮発して「留守電機能付きインテリジェント・テレフォン」を買う、というような描写があって、確かに10年前くらいではそれがごく普通のことだったのに、妙な違和感を感じたりしました。
HDD が一般的に使われるようになって既に10年以上経つわけですが、HDD クラッシュでデータを失う人が現実に多数いるにもかかわらず、コンシューマレベルでのソリューションは一向に提供される気配がありません。エンタープライズ分野ではもちろん RAID その他いろいろソリューションあるわけですけれども、個人 PC におけるクラッシュの被害がそれらに対して相対的に小さい=ニーズがないとは思えないんですよね。HDD クラッシュという、「起きるか起こらないか分からない」モノに対してかけるコストというものが、個人レベルでは見積りにくいというのが主な理由なのかしら。
そういう意味では、これまでは RAID やレプリケーションなど「守るべきものをコストをかけて守る」という話しかなかったわけですが、現在では個人レベルでも iPod やハイブリッドレコーダなど、いくつもの HDD を所有しているわけで、それらの間で自動的にデータを重要度に応じて冗長化して保持するなどして、「機器は故障しても大事なデータは絶対に消えない」というようなうまい仕組みを作ったら結構訴求力あると思うんだけどなぁ3。
HDD クラッシュに戦戦兢兢として日々過ごすのはもう止めたいっす…。
Victor で始まったティザー広告1。どうやら HDD をストレージにしたカムコーダらしいゾ。
さてさて。どんなものだろう?Victor 発、というのも興味深い。Sony はやっぱりこれまでのメカコンへのコダワリを捨て切れなかったのか…。
首藤さんとこより。広い意味での ASP 的流れといえるのでしょうが、ユーザがいちいちソフトをインストールしたりアップグレードしたりしなくていい、というのは結構訴求力あるような。月額 105 円、というのも魅力的。
これを見てふと思い出したのは Lotus の eSuite だったりしましたが(^^;、あちらは applet のようなモデルでやれることをやりすぎちゃいました!という、どちらかというと技術面での壮大な実験だったのに対し、これはたぶん、ユーザの利便性や現実性を最優先で設計されているだろうことを考えると、結構うまく行きそうに思えます。
ISP はこれから「インフラ屋」として道を究めるべく、何でもプロバイドしていかなくちゃいけないのかもしれないですねー>誰となく。
LED バックライトきたー!フロントプロジェクタでも色再現性にこだわってキセノンランプを採用してたりしてた Sony らしいと言えばらしい展開。今回の「QUALIA」は店頭売りもするのだそう。価格も定価で 110 万 (46V型) ならば、Sharp の AQUOS に対しても価格競争力ありそうです。
しかし LED バックライトのせいでプラズマ並の消費電力+冷却用ファンが必要になってしまったのはちょっと痛い?だからこそ QUALIA ブランドなのかもしれませんね2。
PSX の GUI を載せてきたり、フルダブルチューナとか、力でゴリ押しするのが好きな久夛良木さんの色をやっぱり感じますね(笑。
PS2 の「ICO」の、宮部みゆきさんによるノベライズ本。amazon のレビューが微妙に荒れていておかしい。ICO ってとても「寡黙」なゲームなので、たぶんプレイした人が自分のイメージをより強く投影しちゃうんでしょうね。だからこそ、他者のイメージに対する違和感もより大きいと。
僕自身は結構楽しめました。宮部さん自身が後書きで書いているように、小説としてかなりふくらまされていて、まさに宮部節全開、という感じ。静かで動きの少ないイコとヨルダの逃避行はあえてメインに据えず、イコが霧の城に来る前とか、ヨルダの過去、イケニエの理由などが中心に語られています。ゲーム中に現れる何気ない石像の裏にも壮大なバックストーリーをつけてしまうところなんか、いかにもエピソード魔的な宮部さんのお話って感じかも。
「宮部さんの話」という面で言うと、彼女の本は過去何冊か読みましたが個人的にはいまいちピンと来ないんですよね。登場人物は魅力的だと思うんですが…。軽い文体と唐突に現れる凝った言い回しに違和感を感じちゃうのが大きいのかなぁ。そんな難しい言葉じゃなくもっと平易な言葉を選んでもいいのに…と思ってしまう。
というわけで、先週作っていた Picture Saver のソースをば公開3。
保坂さんつながりで。上中下の三分冊で大変読みごたえがありました。面白かった。
ほんとならタイトルにもなっているくらいだし、主人公アンナ&ヴロンスキーの悲劇をメインに読む本な気がしますが、僕はもっぱらリョーヴィン&キチイ1のカップルに惹かれました。特にリョーヴィン。ほとんどバカがつくほど素直すぎる彼の苦悩やその結論にとても共感。出産のシーンでは思わず電車の中で笑い出したりしつつも、初めて自分の子供を見たときの気持ちは僕もそうだったような気がしました。
リョーヴィンがたどり着いた結論とは、例えば
つまり、われわれが理解したり、われわれをひきつけたり、われわれが望んだりすることのために生きるのじゃなく、なにかしら不可解なもののために、だれひとり理解することも、定義することもできない、神のために生きなくてはいけないのだ。
アンナ・カレーニナより引用
とか、また理性による探求を、子供が自分のしたことを大人に叱られた時に感じる反感のようなものではないか、というようなものなんですが、これがたまたま最近僕の考えていたことと微妙にシンクロしていて2、とても興味深かった。
僕が最近考えていたこととはこんなこと。「ブラッド・ミュージック」を読んで、「幼年期の終わり」を思いだし、「未来の記憶」という概念について考えていました。この概念は普通に考えると非常に突拍子もないものながら、さまざまな物語にしばしば現れるモチーフです。でも、どうしてでしょうか?
例えば「デジャヴュ」からの発想とか、「時間軸」を単純に未来方向へ演繹しただけ、という理由も大きいのでしょうが、そのときふと、「生命自身は未来の記憶を持つことが実は本当に可能なのではないか」という思いが湧いてきました。
人間理性は未だカオス系やカオス辺縁系の未来を予測することが出来ないでいますが、現実を顧みると生命自身はある程度それらを予測出来ている、と言えないでしょうか。そうでなければ、カオティックな世界の中で自らの分身を残すような確たる仕事を成し遂げることは出来なかったでしょう。数ヵ月、時には数年に一度だけ降る雨の時にのみ繁殖をするような生物や、季節や環境によりあざやかに変態する昆虫達。彼らはカオティックな世界ととてもうまく折り合いをつけているように見えます。
そういう意味で、人間も本来生命ですから、カオスを御する能力を持っているはず。ただしそれは意識レベルのものではないに違いない。なぜなら人の理性は、そういった面に関しては甚だ非力過ぎるから。自分の身体と、身体を取り巻く環境と、そういったものを無意識のレベルで感覚した時に得られる衝動。そういった人間本来の持つ生命としてのカオスを御するための力こそ、これまで「絶対的な善」として、「神」として認識されてきた衝動だったりするのではないでしょうか。リョーヴィンの言う、「理解することも定義することも出来ない神のために生きねばならない」とは、すなわちそういうことなのではなかろうか…と思ったりしたわけなのでした。
ところで、今回初めて「トルストイ主義」というものを知ったのですが、そこからガンジーさんにつながっていたり、養老先生の共同体指向的な発言の根っこのようなものを見たような気がしたりして、なんだか面白かった。ことさらそういうテーマの本を選んで読んでいるつもりはないんですが、いろいろな人のいろいろな考えが自然とつながってくるものなのですね。