bird「白い犬とワルツを」, void 氏、mixi を強制退会処分に?

「白い犬とワルツを」

白い犬とワルツを テリー・ケイ著。少し前に、ある本屋の店員さんが「お薦め!」として紹介したところから草の根的にベストセラーになったらしく、しばらく文庫版が本屋さんでは平積みになっていましたね。前回の「犬は勘定に入れません」に続き、「犬つながり」ということで借りてみました。

物語は80歳を越えたサム・ピークがその妻を失うところから始まり、その後のサムの生活が、サムの子供達や、妻と入れ替わるように現れたまるで幻のような真っ白な犬との関わりから描かれています。人生の終幕を生きるサムはしかし、時に勇敢、時にユーモアにあふれ、妻や長年の友人達を日々失っていくことの寂しさを感じながらも、最後まで前向きに生きています。

この本はもしかすると、「死に方」に関する本と言えるのかもしれません。作者のケイさんはあとがきで、

わたしはこの『白い犬とワルツを』の材料を、わたしの目にわたしの両親の真実と映るものから得た。

「白い犬とワルツを」の「この小説を読んでくださった読者へ」より引用

と書いています。死に臨んで、こうありたい、と振る舞うことは、生きていくうちに行う以上に困難なことなように思いますが、ケイさんはご両親の姿からきっと多くを学び、それをこの本に記してくれたのだと思いました。

void 氏、mixi を強制退会処分に?

あはは。はちぽちより。void さんならやりかねないというかなんというか。僕がびっくりしたのは、彼、昔とまったく芸風変わっていないのですね。これはある意味すごいことだと思うぞ。
リンクされている日記へのコメントを見ていて思ったんですが、人って自分が正しいと信じていることを、間違いとかウソとかデマとか言われるとあっさり切れちゃうことが多いですよね。この場合の「間違い」がすっごく難しい問題とか自分でも自信がないような事柄ならばそれほど問題にならないこともあるんですが、その人が思ってもいないようなこと、小さい頃からやってきて意識すらしてないことなどだとかなりの高確率で怒り出すことが多いような気がします。ここでも問題になっていたような生活の知恵的なものとか。文字の些細な読み間違いとか。前者に関しては「自分の家族を侮辱された」ように感じてしまうのかな。
なので、実生活においてもその手の些細な間違いほど、指摘するのを躊躇してしまうことがあります。指摘しなくても自分にとっては実害ないし、指摘したら切れられるかも、と思うと、どうしても怖いですから。ただ、誰かが指摘してあげない限りその人はずっと間違えた知識を持ち (時にひっそり恥をかき)、場合によってはそれを広めてしまう危険性を考えると、ほんとはちゃんと指摘してあげるべきなんだろうなぁ、と僕は思うのですね。そういう意味で void さんの芸風には、いつもあきれると同時にちょっと感心してしまうのでした。

コメント

かぷぃのすけ (Wed, 17 Aug 2005 00:20:15)
昔から名前だけは聞いたことのある void 氏の論調を初めて目にしたけど、割と愛すべきキャラなのだなぁと思った。パラノイアだけど。

で、「芸風」ってなんですか?
Digitune (Wed, 17 Aug 2005 00:42:38)
君の言う「キャラ」とほぼ同義だよ>かぴのすけ
しゅ (Wed, 17 Aug 2005 01:11:19)
あれを「芸」って呼ぶ人は、それによって心の平安を得ているんじゃないかと感じるんですよね。
ライブドア堀江社長をホリエモンと呼ぶのと同じく。
Digitune (Wed, 17 Aug 2005 08:36:03)
むむむ。鋭いですね>しゅさん
「芸」という、非日常的なものとして位置づけることで自分の心から切り離し、それによって心の平安を得ている、ということですね?(「ホリエモン」もある種の非日常化という理解で正しいですか?)
そういう面も確かにあるのかもしれませんが、僕が感じる主な感覚はその点よりもむしろ、「見事にキャラの立った振る舞いに対する賛辞」としての「芸」の方が大きいような気がします。普通なら単に「性格」や「キャラ」として扱われてしまうものを、「芸」と呼びたくなるほどに徹底している点を単純にすごいと思うのですね。そこに相手を疎んじる気持ちは僕にはあんまりないようにも思うんですが、なにしろ自己採点の甘いヤツなのであんまり自信はありません(^^;。
しゅ (Wed, 17 Aug 2005 12:01:42)
的を射た解釈、ありがとうございます。
賛辞だとしても、void氏に対するたいていの方の「芸」という言い方は、皮肉まじりなんじゃないですかね。
あとは、ここ何年かで使われ始めた「キャラ」っていう言い方も、その人の中身・本質とは違う(かもしれない)ある一面(→キャラ)なんだという解釈をすることで、中身・本質に踏み込む、中身・本質について考えることを避けるっていうひとつのテクニックではないかと考えてます。
他者ではなくて自分について「キャラ」と言う場合には、この一面(→キャラ)は必ずしも自分の中身・本質を表しているものではないのよ、っていう、中身・本質を露出させずに外界と付き合うためのひとつのテクニックではないかと。
うさ (Wed, 17 Aug 2005 12:25:27)
しかしvoid氏ってfjのころから全然進歩してないのね。
幼稚な人だ・・・
Digitune (Wed, 17 Aug 2005 12:50:22)
「たいていの方は皮肉まじり」、確かにそうかも>しゅさん
「芸」や「キャラ」が本質を隠すためのテクニック、というのは僕も同意です。この問題っていわゆる「本当の自分」信仰ともつながってるんでしょうね。僕はそれってなんだよ?といつも思ってしまうのですが。
人が社会との関わりにおいて多数のペルソナ (仮面) を持つ、ということは昔から言われていたことだと思うんですが、過去のペルソナがあくまでも当人の仮面だったのに対し、最近の「キャラ」には当人とは独立した、全く別の個性を見る点が違うのかな、と思います。「みんなの前でのキャラと、本当の私は全然違うんだよ…」<こういう物言い。このような見方が同時に、自分にとって不愉快な人物に相対した時に、「こいつのこの芸風はいけすかんが、実は中身はそんなに違わないんだよね?」という儚い希望を抱くことになるという感じでしょうか。
Digitune (Wed, 17 Aug 2005 12:52:05)
彼の場合明らかに意識してああいう所行を繰り返しているので、「幼稚」というにはあたらないかも>うさどん
あえて一言で言えば「変人」とか「奇矯な人」って感じでは?
うさ (Wed, 17 Aug 2005 17:43:07)

変人に失礼だ!
個人的には「変人」っつーと、確かに変だけれども一箇所くらいはすげーところがあるイメージなんだが、彼の場合百害あって一利なしじゃん。
いるだけ迷惑っつーか。発言自体情報量0だし。ああいう人間がいまだに幅を利かせているのが恐ろしいとこだねー。個人的に嫌い。
Digitune (Wed, 17 Aug 2005 18:18:44)
「情報量0」ってこともないし (上のリンク先にあるチーズの話は読みました?)、「幅を利かせている」ってこともないと思うけど>うさどん
まぁ「個人的に嫌い」ということね、つまり。
かぷぃのすけ (Wed, 17 Aug 2005 19:59:24)
「キャラ」はキャラメルの意味で使ってたから「芸風」はキャラメルとほぼ同義ということになるわけかー。意外な意味だな。
Digitune (Wed, 17 Aug 2005 21:27:41)
「キャラ」=「キャラメル」の方がよっぽど意外だよっ!!>かぴのすけ
TrackBack (Tue, 21 Mar 2006 14:08:32)
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